また時間稼ぎ物資投下ー。
自分の中でのイメージ作りのためにメモ帳に書いてたやつのコピペです。


『緋蜜の花』椎菜編を最後まで読まれた方のみ(ネタバレになっちゃうとこがあるので…)、下の「続きを読む」からどうぞ。


零.桜



「……これ?」
「うん」
 春休みの、よく晴れた日曜日。
 家族連れで溢れかえる真昼のデパートの本屋で、母はあきれた声を出した。
「椎菜、あんたねえ……誕生日に英英辞典なんて欲しがる女子高生がいますかっ!」
 今日、4月3日で、私は17歳になる。その誕生日プレゼントを買いに行こうと母に誘われ、母娘揃ってこの駅前のショッピングモールにやって来た。だが、私が正直に今欲しいと思う品物は、母にとっては不服なもののようで、おでこを小突かれて反対された。
「何よー。いいじゃないよ、来年は大学受験なんだし。英和・和英だけじゃ心許ないもん」
「あのねえ椎菜。いくらお母さんが教師だからって、そこまで娘に勉学に励んで欲しいなんて思ってないわよ?」
 そう言って母は辞典を平積みの台に戻し、私の手首をつかんで歩き出した。
「ちょっ、ちょっとー! 何よお母さん!」
 突然に体の向きと別方向に引っぱられ、私はバランスを崩しそうになる。
 周りの人にじろじろ見られているのにもお構い無しに、母は私を引っぱってずんずん歩いていく。
「そんな辞典よりも、ほら」
 私が引きずられて行った先は、同じフロアーにあるブティックだった。
 店先にはほんの数着程度しか出していなさそうな、マネキンやその他のオブジェばかりがやたらとスペースをとったブティック。
「ほらほら。こういうかわいい服とか欲しくないの? ルイちゃんに見立ててもらってもいいじゃない、あの子オシャレだし」
 母は、ひらひらとした、でも上品な感じのフレアースカートと、少し胸の開いたカーディガンを着せられたマネキン指さす。どちらも妙に大人っぽいデザインで…………どちらも値段は5桁。
「……そんなのどこ着てくのよー。普段家で着られないじゃない」
「普段着られないから価値が上がるんでしょうに。……はぁ、お母さんは悲しいわ。なんでそこまで色気が無いのか……」
 母の言葉に、私は黙って口をとがらせる。
「せっかくそこそこ可愛い顔に産んでやったのになー。おっぱいも意外としっかり膨らんでるし。なのに、週末に予定は無いわ、バレンタインにはチョコのチョの字も口にしないわ……」
「あーもーしつこいっ! そんなの私の勝手でしょうがっ!」
 もう何度も聞かされたセリフをこんなお店でまで聞かされ、私は頭にきて、そっぽを向く。母もあきれてしまい、埒が明かない。
 17歳の誕生日プレゼントに、英英辞典を欲しがる私と、こういった洋服やらアクセサリーやらをあげたがる母。どうにも噛み合わない意向。こうやってわざわざ私を買い物に連れ出さずに、そっちで勝手に選んで買ってきてプレゼントしてくれたのなら、私だって素直に喜んだのに。これじゃあ、私が積極的に欲しがってるみたいじゃないか。
 母は大きくため息をつき、「とりあえず、どこかでお茶でも飲みましょう」と言った。仏頂面のまま頷く。

 デパートから、駅とは反対方面へ少し歩いたところにある喫茶店に入った。
 桜並木のある道路が窓から見えるそのお店。窓ぎわの日当たりの良い席に、母と私は向かい合って座る。母は、何やら真剣な顔をしてしばらく考え込んだあと、急にぐっと正面から私を見据えた。
「よし。あんたも17だし……そろそろ教えてもいい頃ね、うん」
「? 何があ?」
 ココアフロートをすすりながら、そんな母を見る。(特に精神的に)疲れているので、甘いものが深く染み渡るのを感じる。
「教えてあげる、椎菜。あんたの名前の由来よ」
「……何?」
 私の名前の由来。椎菜、という名前の由来。小さい頃から幾度となく両親に質問してきたことだったが、父は「つけたのはお母さんだからお母さんに訊きなさい」と言い、母は「秘密」と言うだけだった。何度訊いても母の答えは同じで、そのうち私も興味をなくしてしまった。別に、知らなくても死にはしないかと思って、ほっといた。
 それをなぜ今さら、母は教えるなんて言い出すのだろう。でも、まあ、聞いておいて損はない。
 母は、じっと私の目を見て、指を組み合わせ、ゆっくりと口を開く。
「……それはね……」
「もったいぶらないで早く言ってよう。要点だけ、簡潔に」
「もう、ムードないわね。……あのね、お母さんには昔、シイナさんっていう恋人がいたのよ」
「……ふーん」
 自分の眉間に自然としわが寄るのがわかった。
「何ヘンな顔してるのよ。もちろん、お父さんと結婚する前の話よ? 2年近く付き合ってたんだけどね、もろもろの理由で別れなくちゃならなかったの。別れの決断を後悔してなんていないし、お父さんのことは本当に愛しているけど、お母さんはどうしてもその人のことが忘れられなくて……」
「私の名前はお母さんの未練から付けられたってことね」
「男の子と付き合ったこともないくせに、達観したような言い方すんじゃなーいっ!」
「はいはい。でもその人、漢字まで私と一緒のシイナ?」
「ううん、苗字だったし。もちろん椎の木の椎に、名前の名で、椎名さんだった。でも私がその字で出生届出そうとしたら、お父さんが、それじゃ苗字みたいだから漢字を変えろって。……まあ、お父さんにこの由来を内緒にしてる引け目もあって、そこは譲歩して漢字を変えたのよ」
 そう言って母は、備え付けのペーパーに、持っていたボールペンで“菜”、“奈”、“那”などの漢字を書いた。
「それで、アミダくじでこの“菜”って字にして、椎菜って名前になったの」
「最後の最後でアミダですか……」
「でも、ロマンチックでしょ?」
 母は得意げに聞いてくるが、私はしらけた反応しかできない。と言うより、どう反応していいかわからない。学校の友達などにならともかく、母の若い頃の恋愛話なんてされても、困る。聞いていてもなんだか居心地が悪いだけだ。母が、母でなくて、一人の恋する女性だった頃の話なんて。
 母は私の微妙な反応が不満なようで、むすっとして自分のあんみつをパクパク食べだした。私はそれを見ながら、チラリと思う。もしお母さんとその椎名さんが結婚していたとしたら、私はこの世にいなかったんだ。母の傍には、椎名さんがいる代わりに、椎菜がいない。別に悲しくもなんともないが、不思議な気分だった。
 窓の外を見る。街路を行き交う人々、自動車、降る桜を眺める。母がまた誕生日プレゼントの話をし始めるのを、半分うわのそらで聞きながら。
 私に、そんなに欲しいものなんて、ない。私は社会規則や規範の中で、自分が好ましく思うもの、楽しいと思うことに心を傾けつつ、無難に暮らしていければそれで満足なのだ。将来の夢だって、そんなに強く「なりたい」と願っているものなんてない。……心の底から本当に、本当に望む夢なんて――――もう絶対に、実現できないのだから。

 『久世さん、なんだか顔色悪いみたいだ。大丈夫?』

 ボロボロの格好でそう言った彼の声が、昨日聴いたもののように、痛いくらい鮮やかによみがえってくる。
 でも、私はもう取り乱したりしない。取り返しようのない過去を、落ち着いて咀嚼できるようになった。
 ――彼を、守りたかったこと。
 ――彼を、守れなかったこと。
 その悲しみを私は、ずっと、静かに心に抱いて生きていくのだろう。
 彼はもう、怪我はよくなったのだろうか。病院を退院して、既にこの街を去ってしまっているのかもしれない。どうかどうか、彼が幸せであればいい、と思う。
 去年の十一月、彼が学校で何者かにひどく斬りつけられて重傷を負ったのを知ったとき、私は激しく取り乱した。あんなに優しいのに、あんなに傷つけられ苦しんでいた人が、なんで更にそんな目に遭わなければいけないのか。あまりにも理不尽な出来事に対する悲しみと怒りで、私は、おかしくなった。父や母、ルイにも迷惑をかけた。
 守りたい人を、守れないつらさを、知った。だから私はもう、祈るしかないのだ。きっと、もう二度と会うことはないであろう彼の幸せを、ただ。

 結局その後は、プレゼントのことは保留にして、母は駅から少し離れた花屋に寄り、私だけ先に帰ることになった。
 喫茶店の前でお互い反対の方向に別れ、歩き出す。春へと循環する、桜の咲き始めた街。覚えが無い。こんなに残酷に感じられる季節、私は今までに16回も過ごしてきただろうか?
 車の量もだいぶ減ってくるほどに駅から遠ざかり、家の方へ近づいたところで、学校の見える道へさしかかった。春の青空を背景にした校舎を眺め、ふと、もう学校はあいてるのかと気になる。矢幡野高校の始業式まではまだ三日あるが、人気の無い学校を散歩してみてもいいかも、という気分になった。
 学校脇の長い坂道を登ると、校門が開放されているのが見えてきた。野良犬とか入り放題なんじゃないかな? と思いつつ、そこをくぐる。
 遠く、体育館やグラウンドのほうからは人の声がするが、いま私がいる校舎手前の路地には他に誰もいなくて、ただ暖かい風の吹く音と、木々のざわめきだけがあった。
 校舎ぞいに、路地を歩く。奥へ少し進むとすぐ、一階に、1年C組の教室が見えてきた。薄暗い、無機質な箱のような教室。去年、私や彼が生活していた教室である。壁にはまだ掲示物をはがした痕跡が残っていて、否が応にも、去年のことが思い出されてしまう。
 都会から観光にやって来る人は、この街を「自然が多くて穏やかな、いい街だ」と言う。けれどだからといって、住んでる人まで皆が皆穏やかだというわけではない。私は嫌になるほど見た。誰かを見下して傷つけて、面白がる人たちを。……抵抗もせずにそれを受け入れる彼を、容赦なく踏み潰す奴らを。
「――――いけない」
 また、泣きそうになってきた。
 守りたかったのに。彼を傷つける人から彼を守りたくて、できる限りのことをしたのに。ある日突然、私の目の届かない範囲で、彼は包丁でメッタ切りにされてしまった。
 ……ちょうど、その事件現場の、理科実験室が見える場所まで来た。もう、校舎の端である。とりあえずここまで歩いてみたものの、することは特に無い。大きく息をつき、泣きそうになった気持ちを落ち着けて、引き返そうとターンしたとき、左手にある桜の木が目に止まった。
「……そういえば、こんなところにも桜があったわね」
 木の幹へ手が届くほど近づき、その上品なピンク色――薄い薄い緋色に染まった、花を見上げる。街はずれの桜園に植わっているものに比べればあまり目を引くものではないけれど、慎ましやかで、真摯に花びらを降らせる、桜。
 ふと、今まで微塵も思わなかったことが、頭をよぎる。
「私も春生まれなんだし、“桜”って名前にでもすれば良かったのにねえ」
 呟いて、次の瞬間、にわかにむなしくなる。私が“桜”なんて、あまりにも似合わない。
 きれいな桜。こんなにきれいな桜。
 桜が私のように、好きな人が殺されかけて、ショックで暴れたり、バカみたいに泣き続けたり、吐いたり、鼻血を出したりするものか。そんな無様なことはしないだろう。けなげに、静かに、その人を想っているだけだろう。桜と椎菜は、あまりにも遠すぎる――……そう思って、自嘲気味に苦く笑った。
 そのとき、背後に、人の気配を感じた。
「……?」
 振り向く。
 瞳に、スローモーションで、その像が結ばれる。
「――――――――――――」
 目の前に在るものが、理解できない。
 その存在をはっきり感じている自分。「ああ、私は完全に頭がおかしくなった」という安らぎにも似た諦めを持った自分。そのふたつの狭間で、瞬間的に溺れそうになった。
 風がさざなみのように吹き、桜の花びらがその中に溶け込むように散る。
 そのとき私に視線を落とした目の前の幻は、私の記憶のままの彼ではなく、背が高くなって、がっしりとして、少し髪が伸びて――――そして、顔じゅう傷だらけで。でも、確かに、彼だった。
「つ……都築く……ん……?」
 わけがわからないまま声を漏らす。すると、彼は言った。
「どうして、俺の名前を知ってるの?」


「こんな傷だらけのフランケンシュタインみたいになっちゃってるからさ、家族でもない限りわからないもんかと思ってたけど」
 彼は笑って言った。
 そんな彼の様子とは裏腹に、私は心底呆然として彼の話を聞いていた。
 記憶障害。彼は、一年生のときのことを忘れてしまったんだ。事件のときのことも。いじめのことも。私のことも。
 それは、彼にとって幸せなことなのかもしれない。つらかったこと苦しかったことを忘れて、生活をやり直すということは。でも、忘れてそれで何も問題なくすむはずがない。去年同じクラスだった人との新たな軋轢だって生まれてしまうかも知れないし、何より、彼を斬った犯人は捕まっていない。もしこのまま野放しにしておけば、また彼を狙う可能性だってあるのだ。
 それに、この傷跡。顔だけでこんなにひどいのに、これが全身にあるなんて。彼が傷ついた話をあらかじめ知っていながらも、実際にその傷を目にすると、膝の皿が割れたかのように足ががくがくと震えだしそうになった。
 彼はどんなに痛かっただろう。怖かっただろう。悲しかっただろう。そして、今も、どんなに。
 私は、どうする? 私は。久世椎菜は、何をすべきなのか。何をしたかったのか。私は、今度こそ、彼を――――
「……都築くん」
「え、なに?」
 きょとんとしている彼の胸元に近づく。その瞳をじっと見つめ、傷を見つめ、私は決意した。
「…………痛そう……」
 今度こそ、彼を、守ると。
 すべての痛みや苦しみや悲しみから、守ると。


 都築くんと別れて、私の足は自然とある方向へ向かった。
 駅の方角へ少し戻ったところにある、商店街の、金物屋。
 そこで私は、上等な文化包丁を買った。自分から自分への、17歳の誕生日プレゼント。
 まるで宝物を手にするように、袋に入れられたそれの重みをしみじみと感じながら、舗装された桜並木の道を踏みしめゆく。暖かい春の空気に包まれて、自分の決意を呪詛のように反芻する。
 殺す。
 彼を切り刻んだ奴を探し出して、殺してやる。
 二度とこの世に、彼の住むこの世界に存在できないように、完璧に殺す。殺して殺して殺し尽くしてやる。


 帰宅するとすでに母は戻っていて、居間で父と一緒にテレビを見ていた。テレビのニュース番組では少年犯罪の事件が報道されていて、二人は「17歳の犯罪って数年前に流行ったわよねー。でも実際、少年犯罪って昔より減ってるんでしょ?」「ああ、統計上ではな。もちろん、少なければそれでいいって問題じゃないが……」などと会話している。
 母は靴を脱いで上がってきた私に気付き、「おかえり」と声をかける。私も笑顔で「ただいま」と応える。
「ん? 何か買ってきたの?」
 私が手にしている袋を見て尋ねる。
「包丁」
「あははは。怖い怖い、17歳」
 冗談と受け取ったのか、母は笑って言った。私も、笑う。そして部屋に入り、電気をつけないまま、日没まで床にうずくまった。手には、自分への誕生日プレゼントを握り締めて。
 周囲が暗くなり、もうすぐ母が私を呼びに来るだろうと思い顔を上げる。私の部屋の窓からは月と街灯のついた電柱と近所の建物が見えるだけで、桜の木は見えない。そのことでなぜか、救われるような気持ちになる。ずっとこの部屋で生活してきたのに、こんな気持ちになるのは初めてだった。
 床をもぞもぞと移動し、ベッドに上半身だけ突っ伏す。下の布団に涙が滲みた。
「始業式、は、6日か……」
 ひとり呟きながら、瞳を閉じる。
 私は桜にはなれない。
 そして私は望みを捨てなければいけない。彼の友達になりたい、という夢を。
 でも、私が完全に狂ってしまう日までは、せめて赦して欲しい。期間限定でいい、あなたの友達でいさせてください。それ以外には、何も望まないから。
 そう祈り、春という塒に抱かれたまま、私はかりそめの夢を見始める3日後のことを思った。




【了】